閉店10分前、いつもの様に表に出しているメニュープレートを片付けるために店の外へ出ると、
ポツリと冷たい感触が
の頬を掠めた。
「雨かしら……困ったわ、今日は傘を持ってきていないのに。」
見上げると澱んだ鈍色の空は暗く、流れる雲の早さが通り雨を予感させる。
案の定、少しずつ強まってきた雨足に慌てて残りのプレートを片付け、店に戻ろうとしたその時。
「あら……子供?」
小さな人影が、曲がり角から飛び出して来たのが見えた。
こんな時間にあんな小さな子供がたった1人でいるなんて…?あれこれ考えている間にも、雨は一層激しさを
増してゆく。 …迷っている暇はないみたい。
「ごめんなさいマスター、すぐに戻りますから…!」
叔父の返事も半ばに
は店を飛び出し、子供のあとを追いかけた。
ただ事ではない何かを感じたのは単なる自分の早合点で、本当は何処かで待っている母親の元へと走って
行っただけなのかもしれない。だけど
はどうしても見過ごせなかった。
薄闇の中はっきりとは見えなかったけれど、何だかその子が泣いているように見えたから。
「…確かここの角を曲がって……あっ。」
人通りの少ない路地裏の向こうに立ち尽くす小さな影。思わず駆け寄ろうとすると、びくりとその小さな体を
震わせて今にも逃げ出してしまいそうな気配を感じ、
は驚かせないようにゆっくりと歩み寄った。
「僕、こんなところでどうしたの?」
背格好から予想すると、幼稚園生くらいだろうか。
薄暗くて表情はよくわからないが、警戒しているのか押し黙ったまま返事はない。
「…いけない、雨が酷くなってきたわ。…お姉ちゃんね、そこの喫茶店で働いているの。このままだと2人とも
びしょ濡れになっちゃうから一緒に行きましょう?僕…走れるかしら?」
少年が微かに頷く。差し出された
の手を少しためらいがちに、小さな冷えた掌がきゅっと握るのを
確認してから、なるべく彼の歩幅に合わせながら店に向かって走り出した。
「ごめんなさい叔父さん、急に飛び出したりして……」
「ああ
、良かった。雨が酷くなってきたから心配していたんだよ……おや、その子は?」
のスカートの裾をぎゅっと握ったままの少年に気付いて目を丸くしている叔父に、彼女は事の顛末を
話した。
「ええ…迷子みたいなんだけど、雨が酷くなりそうだったからとりあえず連れて帰って来てしまったの。
あと、少し濡れてしまったからタオルと…出来ればシャワーもお借りしていいかしら叔父さん?」
「勿論かまわないさ。だが私はこれからちょっと友人と会う約束があってね…帰りは遅くなると思うから戸締り
だけきちんとしてくれればいい。あとは、その子の親御さんにも連絡を…いや、
はしっかりしているから
私が言わなくても心配はないな。」
それじゃあ行ってくるよと、叔父はカウンターに置かれた車のキーを取り、裏口から出掛けて行った。
「…さてと。じゃ、お姉ちゃんと一緒にお風呂に入りましょうか。」
「えっ…」
思いもよらない展開だったのか、少年は綺麗な蒼い目をいっぱいに見開いて
を見上げる。
「ふふっ、ほら行きましょう。濡れたままだとカゼをひいてしまうわ。」
唖然とする少年の手を握ると、
は2階にある叔父のプライベートルームへと向かった。
43歳で未だ花の独身貴族を誇る
の叔父は、1階でティールームを経営、2〜3階を自宅用に改築して
自由気ままな1人暮らしをしている。
も時々、学校の都合などで叔父の家へ泊めて貰うことがあるのだが、趣味のいい家具や装飾品に
彩られた彼の部屋は、ちょっとしたホテルの一室と言っても過言ではないくらい立派なものだった。
「そうだわ、自己紹介がまだだったわね。私の名前は
。この近くにある大学に通っているの。
先月の誕生日で20歳になったばかりよ。…あなたは?」
「…あとべけいご。…5さい。」
利発そうな瞳でじっと
を見つめたまま、澄んだ声がはっきりとそう告げる。
色素の薄い柔らかそうな髪に深いブルーの瞳、陶磁器のように滑らかな色白の肌に血色の良い紅い唇……
こうして改めて見ると、彼は驚くほど綺麗な少年だった。
「そう、けいごくんていうの……素敵なお名前ね。」
が微笑みかけると、彼はちょっと恥ずかしそうに頬を染めて俯いてしまった。
「今、お風呂にお湯を入れているところだから……先に準備だけしておきましょうか。」
濡れた服を脱がしてやろうと膝をついてシャツに手を掛けると、彼が随分と品のいい装いである事に
は気づいた。
ロイヤルブルーのシャツにサスペンダーで留められたチャコールグレーの半ズボン、アーガイルのハイソックス。
さっき脱がせたばかりの革靴も、手入れの行き届いた上質なものであることがひと目でわかるほどだった。
脱がせた服を自分の着ていたものと一緒に乾燥機にかけ、
は彼の手を引いてバスルームへ入った。
「はい、どうぞ。…あ、熱いからちゃんとふーふーしてから飲んでね?」
彼は嬉しそうに頷くと、小さな手で
が淹れたココアの入ったマグカップを持ち、ちゃんと言われた
通りにふうふうと息を吹きかけて冷ましてからこくん、と飲んだ。
「…おいしい。」
「本当?良かった……ふふっ、ありがとう。」
体が温まって少し気分が落ち着いたのか、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
彼の両親は毎日仕事が忙しく、いつも寂しい思いをしていたこと、教育係と呼ばれる家庭教師が苦手で、
今日も教師が来る寸前にこっそり抜け出してきたものの、普段1人であまり外に出ることがなかったせいで
迷子になってしまいとても怖かったこと……話しているうちに色々と思い出してしまったのか、次第に彼の
蒼い瞳に涙が溜まってゆく。
「……っ……」
遂に溢れ出した透明な涙が一筋、彼の右目の下にある泣き黒子を過ぎて頬を濡らす。
一度溢れてしまった涙は止められる筈もなく、堰を切った様に零れては俯いた彼の半ズボンの生地に濃い
色の染みを作った。
「…………ぅっ……」
こんなに小さな子供が声を押し殺して泣くなんて。
は居たたまれなくなって、震える彼の体を自分の
胸へと抱き寄せた。
「…ここにはお姉ちゃんとけいごくんしかいないんだから、もう我慢しなくてもいいのよ…?」
その言葉が引き金になったのだろう、とうとう彼は
の胸に顔を押し付けて嗚咽を上げ始めた。
まるで川のせせらぎのように静かな雨音を聞きながら、
は泣きじゃくる彼の柔らかな髪や小さな背中を
愛おしげに優しく撫で続けた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
泣き疲れてぼんやりと
の胸に抱かれていた彼が、ふと思い出したようにごそごそと半ズボンの
ポケットを探り出した。
泣きはらした目はまだ赤く痛々しかったが、ここに来た時に比べると随分落ち着いたように感じられる。
「……これ。」
彼は小さな手に握っていたそれを、
の掌の上にそっと乗せた。それは繊細な細工の施された銀色の
ロケットで、中には小さく折りたたまれた紙が入っていた。
「もしかして……これ、けいごくんのおうちの住所と電話番号?」
「…うん。」
不安気にこちらを見上げているその頭を優しく撫でながら、
は彼の目の高さに合わせてしゃがみ、
安心させるようにゆっくりと言った。
「大丈夫よ、お姉ちゃんがおうちの人にちゃんとお話して一緒にごめんなさいしてあげるから。……ね?」
「…うん!」
彼が力強く頷くのを確かめてから、
はメモに記された番号へと連絡を入れた。
使用人らしき若い女性から執事と名乗る男性へと電話が取り次がれ、すぐに迎えが来るという話になり、
はティールームの住所を告げて受話器を置いた。
皆、彼の事が余程心配だったのだろう。とても丁寧な応対の端々に、明らかに慌てふためいている色が見え
隠れしていた。
それにしても、お手伝いや執事とは。うすうす感じてはいたものの、彼は相当な名家の出身らしい。
間もなく、テレビや映画でしかお目にかかったことのない黒くてやけに長い車が、キキーッとブレーキ音を
響かせながら店の前で止まった。
「坊ちゃま…!景吾坊っちゃま!!」
バタンと開いたドアの中から、いかにも 『執事』 といった出で立ちの初老の紳士が転がるようにして飛び出して
来たのを見て、
にずっとしがみついたままだった景吾の掌に、無意識なのかぎゅっと力が入る。
「やや、これは失礼致しました…!私、跡部邸の執事を勤めさせて頂いております、福永と申します。
ええと……」
「あっ……
と申します。」
「
様、本当に何とお礼を申し上げればよいのやら…本日のお礼は後日必ず。……さ、景吾坊っちゃま、
帰りますぞ?」
「………いやだ。」
ちょうど
の下腹部のあたりに頬を埋めていた景吾ががぽつりと呟く。
おそらく、今まで物分かりの良すぎる5歳児を演じてきた彼の初めてのわがままだったのだろう。
福永は目を白黒とさせていた。
「…
もいっしょじゃなきゃいやだ!」
「け、景吾坊っちゃま…!? (なんと…あの聡明な景吾坊っちゃまが初めて私に……!いや、それよりも
坊っちゃまが初対面の方に対してここまで心を開くとは……) (福永・心の叫び) 」
「あ、あの……(どうしよう……福永さん固まっちゃった…?)」
景吾は相変わらず
にしがみついたまま頑として動かない。一体自分は今どうすればいいのだろう…と
彼女が考えを巡らせている間に硬直が解けたらしく、福永が ふっ…と溜め息とともに笑みを漏らした。
「…どうやら坊っちゃまは大変
様に懐いていらっしゃるご様子で……私も長年坊っちゃまのお世話を
任されて参りましたが、このような事は初めてでございます。…もし、
様さえよろしければ、これからも
景吾坊っちゃまの遊び相手として屋敷にお越し頂けないでしょうか…?」
「えっ、遊び相手……ですか?」
「はい、無理を承知でお願い申し上げます。…勿論、お給金はお支払い致しますゆえ…。」
「
……おれたまとあそぶの、いやか?」
景吾はまるで主人に捨てられそうな子犬のような目でこちらを見上げている。
……けいごくんたら、そんな目で私を見るのは反則よ?
「…わかったわけいごくん。福永さん、とりあえずお話を受けさせて戴きたいんですが、こちらでのアルバイトの
件もありますし…一度叔父に相談してから、また後程そちらへ伺ってもよろしいでしょうか?」
「勿論ですとも、急な話を快諾頂きありがとうございます。ふふ……景吾坊ちゃま、良かったですね。…あとは
教育係の再手配を……」
「ふくなが、せんせいも
がやればいいぞ。」
「ええっ!?」
無邪気な声でとんでもないことをサラリと言ってのけた景吾に、
は動揺を隠し切れず声を上げた。
「おお、なる程。…如何ですかな
様?この際ですから是非、坊ちゃまの家庭教師も含めて……」
「ま、待って下さい…!あの、遊び相手っていうのは大丈夫だと思うんですけど、教育係なんて大役が私に
務まるかどうか……」
「…フム、それはそうでしょうな……しかし弱りましたな。」
「
……いやなのか?」
景吾はまた、先程と同じ子犬の目で
を見つめている。
……だからけいごくん、その目は反則だってば……!
「そ、そうじゃないのよけいごくん!…あっ、待って……すみません福永さん、差し出がましいかも知れませんが
適任だと思われる人が私の友人にいるんですが…」
「なんと、それは助かりますな。
様のご紹介であれば景吾坊っちゃまも納得されると思いますぞ。…ねえ
坊ちゃま?」
「
の…ともだちなのか?」
「ええ、その人も弟さんがいるんだけれど、とても面倒見がよくて…きっと景吾くんともすぐに仲良しになれると
思うわ。」
の提案により、やっとの事で景吾はわかった、と素直に頷いた。
明日は土曜日。
昼過ぎに跡部邸へ伺うことを約束すると、景吾はちょっと名残惜しそうに
を見ていたが、ようやく福永に
連れられて車に乗り込んだ。
曲がり角で見えなくなるまでの間ずっと、車の中から一生懸命小さな手を振り続けていた景吾を見送った後、
は戸締りを確かめてティールームを後にした。もちろん、叔父への伝言メモも忘れずに。
「ふう……なんだか凄く長い1日だったような………大変、家庭教師のバイトの話、早く伝えておかないと…!」
は慌ててポケットから携帯を取り出すと、メモリから馴染みの番号を呼び出して通話ボタンを押した。
1度目の呼び出し音が鳴り終えるよりも早く、受話器から聞きなれた声が耳の奥に流れてくる。
「…はい。やあ、どうしたの
?こんな時間に君がかけてくるなんて珍しいね。」
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